大広寺本堂にある「血天井」のいわれとは?龍の伝説も気になる
お寺は仏さまの教えに帰依する場所ですが、亡くなった人を弔う場所でもあります。
そのため時には血なまぐさいいわれのある品が収蔵されていることもあります。
そのひとつが「血天井」です。
池田市にある大広寺には血天井がありますが、いったいどんないわれがあるのか気になりますよね。
また大広寺には龍にまつわる伝説も残されています。
この記事ではそんな大広寺についてくわしくご紹介します。
参拝の参考にどうぞ。
大広寺の歴史
大広寺(たいこうじ)は曹洞宗のお寺です。
山号は「塩増山」で、ご本尊は釈迦如来です。
1395年に創建されました。
何度か荒廃しますが、1694年に本堂が再建された後、江戸時代には数多くの子院を抱える大寺院となります。
本堂は現在までその姿をとどめています。
池田城主によって創建されたこともあり、代々池田氏の菩提寺として信仰を集めてきました。
敷地内には池田氏の墓の他、阪急電鉄の創始者である小林一三夫妻の墓もあります。
応仁の乱の時代に活躍した連歌師・牡丹花肖柏が愛し草庵を結んだお寺としても知られ、数多くの文化財や逸話が残されています。
また牡丹の花でも有名なお寺で、見頃を迎える5月には多くの参拝者でにぎわいます。
ちなみに池田城はその後、織田信長によって破壊され、その跡地は現在は公園として整備されています。
大広寺本堂の血天井
大広寺本堂玄関前の天井には「血天井」と呼ばれる血しぶきの後が今なお残されています。
これは1507年に起きた両細川の乱で、細川高国の猛攻に遭い池田城が落城したときの血のあとだといわれています。
6代目池田城主・池田貞正が切腹した現場の板を使用しています。
このとき城主をはじめ、一族郎党が大広寺で自刃し亡くなったとされています。
無念のうちに亡くなった人の血しぶきが染みこんだ板をお寺の建築材として使用することで、その魂を弔うという目的の下「血天井」がは造られます。
大広寺の龍伝説
大広寺の山門には目玉部分を白く塗りつぶされた龍図が描かれています。
なぜ目玉が白く塗りつぶされてしまったのかというと、龍図に描かれた白龍が毎夜のごとく水を飲むために抜け出して弁財池へ行くため、和尚が目を塗りつぶします。
すると二度と抜け出てこなくなったという伝説が残されています。
そもそも大広寺の山号である「塩増山」が示すとおり、このあたりはかつて池があり、まるで海のように潮の満ちかけに影響されたとされています。
この池を埋め立ててつくったのが大広寺だとされています。
また境内には龍の爪痕として一部が抉られたといわれる敷石も残されています。
大広寺の御朱印
大広寺で頂ける御朱印は1種類です。
「釈迦如来」(摂津八十八ヶ所霊場 第57番札所)の墨書きが入ります。
初穂料は300円です。
寺務所で頂くことができます。
また大広寺の子院である陽春寺でも御朱印を頂くことができます。
陽春寺の御朱印は1種類で「釈迦牟尼佛」(摂北観音霊場第16番札所)の墨書きが入ります。
大広寺のすぐ隣ですので、時間があれば立ち寄ってみるのも良いでしょう。
大広寺オリジナルデザインの御朱印帳は現在のところありません。
アクセス方法
大広寺には参拝者専用の無料駐車場があります。
公共交通機関を利用する場合、阪急宝塚本線「池田駅」下車、阪急バスに乗り換え「五月山公園・大広寺」で下車し徒歩で約5分です。
池田駅から徒歩で向かうと約25分ほどです。
まとめ
大広寺についてご紹介しました。
池田市を拠点に栄えた豪族・池田氏の菩提寺でのあり、無念の切腹を遂げた城主の血がしみこんだ血天井があるお寺です。
また山号にちなみ、水にまつわる龍の伝説が残されています。
池田市の歴史に想いを馳せるにはぴったりの古刹です。
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