鵲森宮(森之宮神社)の御朱印や百人一首にまつわる話とは?聖徳太子ゆかりの神社で興味深い!

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鵲森宮(森之宮神社)の御朱印や百人一首にまつわる話とは?聖徳太子ゆかりの神社で興味深い!

大阪には聖徳太子に関連する場所がいくつか残されています。

鵲森宮もその1つですが、たくさんの「日本で唯一ここだけ」といわれるものがあります。

何があるのか気になりますよね。

この記事ででそんな聖徳太子ゆかりの神社、鵲森宮についてくわしくご紹介します。

歴史だけではなく御朱印や百人一首などについてもお伝えします。

鵲森宮と聖徳太子の縁とは

鵲森宮(かささぎもりのみや)は通称「森之宮神社」とも呼ばれるお社です。

創建は589年とされており、聖徳太子が創建した唯一の神社だといわれています。

お祀りするのは用明天皇(ようめいてんのう)・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)・聖徳太子です。用明天皇と穴穂部間人皇后は聖徳太子の両親です。

当初は聖徳太子が両親を祀るために創建しましたが、やがて時代が下ると創建に関わった聖徳太子もお祀りするようになり、親子2代が鎮座することとなったのです。

穴穂部間人皇后をお祀りする神社は日本でただひとつ、鵲森宮だけだといわれています。

また奥社には天照大神・月読命・素戔嗚尊をお祀りしています。

国家安泰祈願の神社ですが、厄除けや運気アップ、子育て、武運上達などのご利益を頂くことができるパワースポットでもあります。

また聖徳太子といえば仏教を日本に布教するように努めた人物として知られ、寺院の創建にも関わりが深いお方です。

中でも物部氏との戦いの後に創建したと伝わる天王寺区に鎮座する四天王寺が有名です。

しかし鵲森宮の社伝によると、四天王寺は当初この鵲森宮の隣の森の中に鎮座しており、その地に遷座したといいます。

鵲森宮はそんな四天王寺の鎮守社として創建されたんだとか。

なぜ「かささぎ」の森という名称なの?

鵲森宮の社名の由来ですが、推古天皇の時代に新羅国(朝鮮半島にあった王国)へ派遣された使者が帰還した際、2羽の鵲をお土産として献上しました。

その2羽の鵲を難波の杜で飼っていましたが、この杜が神社の鎮座していた森だったため「鵲の森」と呼ばれることになりそのまま社名として定着するようになったといわれています。

日本書紀にもお土産として鵲を連れ帰ったという話があり、古代より鵲森宮の存在が知れ渡っていたことを覗わせます。

鵲森宮と百人一首の関係

鵲森宮の拝殿のとなりには、古代の有名歌人・大友家持の歌碑が建っています。

「鵲の渡せる橋に 置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」と刻まれていますが、これは小倉百人一首に収蔵されている一首です。

「鵲が連なって作る橋」は七夕の情景を示す言葉として使用されますが、この和歌は冬の情景を示したものです。

どの場所の情景を詠んだかは明示されいませんが、大伴家持が難波宮で防人を管理する職業についていたためこの一帯に住んでいた事や鵲森宮の前に「鵲橋」が実在していたことから、鵲森宮に関係の深い和歌として歌碑が建てられました。

古代の人がどんな情景を目にして何を想ったのか、和歌は時代を超えたタイムカプセルのように私たちに残されたメッセージです。

鵲森宮を参拝したらぜひ、古代に想いを馳せて境内を散策してみて下さい。

鵲森宮の御朱印

鵲森宮の御朱印は1種類です。

社名の墨書きとは別に、「聖徳太子創建の宮」という青色のスタンプが入ります。

初穂料は300円です。

御朱印は御神札授与所で頂くことができます。

鵲森宮オリジナルデザインの御朱印帳は現在のところありません。

アクセス方法

鵲森宮には参拝者用の駐車場はありません。

車で参拝する場合は周辺の有料駐車場を利用しましょう。

公共交通機関を利用する場合、JR大阪環状線「森ノ宮駅」から徒歩で約1分です。

まとめ

鵲森宮についてご紹介しました。

聖徳太子といえば仏教が連想されますが、鵲森宮は日本で唯一といわれる聖徳太子が創建に関わった神社です。

本来は四天王寺の鎮守社であったとも考えられており、日本書紀にもその存在が語られるなど歴史的な史料としても貴重な遺構です。

また百人一首にも納められている和歌の一首はこの鵲森宮について詠んだものともいわれています。

いったいどのような景色だったのか、参拝のついでにかつての面影に想いを馳せてみて下さい。

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