三光神社と真田幸村の関わりとは?アクセスや御朱印も確認
大阪市天王寺区は徳川家と豊臣家が天下の覇権をめぐって争った「大阪の役」の激戦区として、いくつもの伝説が語り継がれている場所でもあります。
中でも三光神社には真田幸村に関わる伝説が残されていますが、いったいどんな関わりがあるのでしょうか。
この記事では、三光神社と真田幸村の関わりからアクセス方法や御朱印などについてもご紹介します。
参拝の参考にどうぞ。
三光神社は病気平癒のご利益あり
三光神社(さんこうじんじゃ)は反正天皇の時代である5世紀頃に創建されたと伝えられる神社です。
反正天皇は仁徳天皇の息子の一人で、まだまだ謎の多い時代の天皇です。
御祭神は天照大神・月読尊・素戔嗚尊の三柱です。
創建当時は現在とは異なる社名「姫山神社」と呼ばれていました。
しかし宮城県に鎮座する青麻神社を勧請し境内に「三光宮」としてお祀りし、病気平癒のご利益で有名になると社名も「三光神社」に改められました。
特に中風封じに効果があると言われています。
そのため三光神社は病気平癒のご利益で知られるパワースポットでもあります。
また境内に鎮座する摂社「武内宿弥社」は寿老神をお祀りしており、大阪七福神のひとつとしても知られています。
寿老神が司るのは長寿であり、病気平癒のご利益と併せて無病息災や長寿延命の祈願にはぴったりの神社です。
三光神社と真田幸村の関わり
三光神社が鎮座する丘は「真田山」とも呼ばれています。
かつては大阪城の出城「真田丸」が置かれた場所でもあります。
真田丸は真田幸村(真田信繁)が大阪の役の際に大阪城の弱点を補うために築城したともいわれています。
さらに三光神社の社殿の下には穴があり、これは真田幸村が大阪城から真田丸へと続く抜け道を掘った跡だと言い伝えられています。
そのため最近では大河ドラマ「真田丸」ゆかりの聖地巡りの一つとして三光神社が脚光を浴びるようになったのです。
この「真田の抜け穴」の横には真田幸村の像が鎮座しており、観光客からの人気を集めています。
気になる真偽についてですが、歴史学者からは否定されています。
三光神社にある穴の跡は、豊臣勢を攻撃した徳川勢が掘った塹壕の跡地とする説が歴史学者の間では有力視されているようです。
しかしまだ確定はしていませんので、もしかしたら「ホントに抜け穴だった」ということもありえるかもしれません。
三光神社を訪れ、実際にはどんな穴だったのかぜひご自分の目で確かめてみることをオススメします。
三光神社のお守り
三光神社で最も人気があるお守りは、「勝守り」です。
赤色の布地に六文銭がデザインされているものや、手彫りで真田幸村と六文銭のシルエットが配置されたものなど様々な種類があります。
また絵馬にも六文銭と真田幸村があしらわれており、参拝記念として持ち帰りたい人向けに袋に包んで頒布してくれます。
三光神社の御朱印
三光神社の御朱印は2種類あります。
ひとつは神社の社名の墨書きと六文銭のスタンプがあしらわれた御朱印です。
六文銭は古来より死者の世界を流れる三途の川の渡し賃とされてきました。
そのため戦場で命を捨てる覚悟を示す印として真田家の家紋とされたという説があります。
もうひとつは「大阪七福神巡り」の御朱印です。
初穂料はそれぞれ300円です。
大阪七福神巡りについては、専用の色紙が1500円であります。
三光神社オリジナルデザインの御朱印帳は、「赤備え」をイメージした赤地に社名と六文銭、真田幸村があしらわれたデザインです。
初穂料は1500円です。
「赤備え」とは、戦に使用する甲冑などの武具を赤色もしくは朱色の一色で統一することを指します。
赤色の原料はかつては高級品でなかなか手には入りにくい上、戦場ではとても目立つ色でした。
そのため赤色を身にまとって戦うことは、かなり優れた武将であることを敵味方に示すものだったのです。
アクセス方法
三光神社には参拝者専用の駐車場がありません。
車で参拝する場合は、周辺にあるコインパーキングを利用しましょう。
公共交通機関を利用する場合、JR環状線「玉造駅」で下車、徒歩で約5分です。
まとめ
三光神社と真田幸村の関わりについてご紹介しました。
病気平癒のご利益で有名な三光神社ですが、真田幸村が大阪の役で出城「真田丸」を築き、大阪城とつながる抜け穴を掘ったという伝説が残されていることでも有名です。
史実かどうかは、ぜひご自分の目で確かめに参拝してみて下さい。
コメントはこちら