供のかねノロ殿内火ぬ神の祠と「供のカネー」と「祝女」の意味とは?

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供のかねノロ殿内火ぬ神の祠と「供のカネー」と「祝女」の意味とは?

今帰仁城跡は周辺に数多くの遺跡があります。

この記事では中でも「供のかねノロ殿内火ぬ神の祠」と呼ばれる遺跡についてご紹介します。

不思議な名称ですが、いったいどんな意味があるのか気になりますよね。

名称の意味や場所についてくわしくお伝えしますので、今帰仁エリアのおでかけの参考にどうぞご覧下さい。

供のかねノロ殿内火ぬ神の祠の意味は「供のカネー」と呼ばれる祝女の・・・

供のかねノロ殿内火ぬ神の祠(とものかねのろどぅんちひぬかんのほこら)は今帰仁城跡近くにある拝所です。

「供のかね」あるいは「供のカネー」と呼ばれる祝女(ノロ)の殿内にお祀りしていた火の神(ひぬかん)の拝所という意味の言葉になります。

ノロとは琉球王国下で聞声大君を頂点に各地で祭祀を執り行っていた聖職者組織の肩書きです。

殿内はこのような高貴な身分の人々が住んでいた屋敷を指す言葉です。

「ひぬかん」はかまどの火の神さまで、各家庭に宿ると信じられている存在です。

基本的にはその家庭に所属するものだけが拝むことができる存在で、家内安全や厄除けを祈願し普段どのように生活しているのか報告するのは各家庭の女性の役割とされています。

沖縄の高貴な身分の人々は、転居する際には各家庭の火の神をその場所に奉じてから去るという風習があり、この供のかねノロ殿内火ぬ神の祠も供のかねノロが去った後もこの地域に残され、現在も祈りが捧げられています。

「供のかね」とはお供という意味

供のかねとは今帰仁ノロのお供を務めた人を指す言葉です。

つまり役職としては今帰仁ノロの下につく祝女(ノロ)という意味になります。

地元では「とぅむぬはーに」と呼ばれており、単独で祭祀を執り行うことはなかったようです。

供のかねノロ殿内火ぬ神の祠は本来は別の場所にありましたが、薩摩藩の今帰仁侵攻の際にノロが今泊集落に移転したことに伴い、殿内も現在地に移転したと考えられています。

供のかねノロ殿内火ぬ神の祠からは今帰仁ノロ火の神の祠へ向かうことができるほど近くにあります。

また阿応理屋恵ノロ殿内火の神の祠も近くにあります。

阿応理屋恵ノロは代々、北山監守の妻が務めたことからも分かるように国頭地方全体の宗教に関わる祝女であり、今帰仁ノロよりも上級の職にあたります。

しかし先ほどふれた薩摩藩の琉球侵攻以後は首里へと引き上げていき、その後の今帰仁エリアの祭祀は今帰仁ノロに引き継がれることとなりました。

場所と行き方について

供のかねノロ殿内火ぬ神の祠は今帰仁城跡近くにある阿応理屋恵ノロ殿内跡からハンタ道をさらに下った位置に鎮座しています。

ハンタ道は全長700mほどですが、現在は深い森に覆われ足下も良くないので歩きやすい靴で日の高い内に参拝に出かけた方が安全です。

雨が降っていたり雨が降った後はさらに歩きにくいですので注意が必要です。

今帰仁城跡のハンタ道までは那覇空港から約110㎞、車で移動すると約2時間45分ほどかかります。

無料駐車場は完備されていますが、今帰仁城跡に入る場合は入場料が必要になります。

入場料には今帰仁村歴史文化センターの入館料も含まれており、ノロに関する資料展示もあります。

供のかねノロ殿内火ぬ神の祠に参拝するときには一緒に観覧しておくとよりノロの役割や歴史について理解を深めることができます。

公共交通機関を利用する場合、路線バス利用で「今帰仁城跡入口」下車、徒歩で約20分ほどです。

まとめ

供のかねノロ殿内火ぬ神の祠についてくわしくご紹介しました。

今帰仁ノロのお供であったノロの住んでいた屋敷の跡地で、現在はかつて火ぬ神を祀っていた祠だけが残されています。

周辺には供のかねノロがお供を務めた今帰仁ノロの屋敷跡や今帰仁を含む周囲一帯の管理を任されていた阿応理屋恵ノロ殿内火の神の祠もあります。

併せて三ヶ所のノロに関するパワースポットが見られる場所は他にはなかなかないので、時間が許す限り全部参拝しておきたいところです。

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