大石神社で御朱印をいただこう!歴史やアクセスについてご紹介!
「忠臣蔵」の名称を耳にすると、「今年もいよいよ年の瀬か」と感じる方も多いのではないでしょうか。
そんな忠臣蔵に縁のある大石神社が京都にあるとご存じでしたか?
いったいどんな歴史やご利益があるのか気になりますよね。
この記事では大石神社の歴史や御朱印についてくわしくご紹介します。
参拝の参考にどうぞ。
大石神社が京都にある理由
京都市山科区にある大石神社が創建されたのは1935年、お祀りするのは赤穂義士として有名な大石内蔵助良雄公です。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは1702年ですが、主君が江戸城内での刃傷事件の責任をとって切腹・御家断絶の処分の後、世間の目を欺くために京都に滞在し遊行に耽ったという伝承から、この地に大石内蔵助良雄と赤穂浪士の功績を偲ぶ神社が創建されました。
昭和になってからなぜ大石神社が創建されたかというと、明治天皇が赤穂浪士の功績を称賛するコメントを出していたためです。
主君をたて義を全うした赤穂浪士の姿こそ、あるべき日本人の誇り高い姿と再評価の機運が高まり、全国的な協賛を経て創建となりました。
大石神社のご利益は「大願成就」です。
また境内には討ち入りのために必要な武器を調達した豪商・天野屋利兵衛を讃える義人社もあり、商売繁盛のご利益を授かることができると信仰を集めています。
赤穂事件とは?京都とのつながりも解説します
そもそも「忠臣蔵」は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目でフィクションです。
しかしモデルとなったのは実際にあった出来事です。
それが「赤穂事件」です。
赤穂事件は江戸時代(18世紀初頭)に起きた事件で、江戸城内で吉良上野介義央に播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が斬りかかったことが発端です。
江戸城内での暴力事件はもちろん御法度。
そのため責任を取り浅野内匠頭長矩は切腹し、藩は御家断絶という重い処分を課せられることとなりました。
現代でいうと、トップの不祥事が原因で会社が倒産してしまった状態です。
浪人となった赤穂浪士は、主君の無念を晴らすために大石内蔵助良雄を含む47人で吉良邸に討ち入り、その首を主君の菩提樹に供えます。
そもそもの原因である、なぜ赤穂藩藩主が吉良義央を切りつけたかについては歴史研究家の間でも議論の的となっており、くわしい原因は分かっていません。
しかしこの赤穂事件が世間に与えた衝撃はすさまじく、赤穂浪士の処分には時の幕府もずいぶんと苦労したようです。
その後、人気に目を付けた作家たちの創作意欲を大いに喚起し、赤穂事件をモデルとした多くの文学作品が生み出されました。
「主君のために義を通す」というテーマは、江戸の世が終わり明治期に時代が移っても為政者にとっても大変都合の良いテーマでした。
そのため史実はともあれ、日本各地の赤穂浪士に関係する土地に関連施設が建てられその偉業を顕彰するようになりました。
大石神社のある山科区では、「討ち入りするべきかどうか」という会議が行われたとされます。
文学作品でも史実の中でも、赤穂浪士は一時の感傷に流されていただけではなく真剣に「義を通すとはどういうことは」という道を模索していたことが分かっています。
その真摯な姿が、後の世の人々の心に訴えかけるものを持っていたのでしょう。
大石神社の御朱印
大石神社で頂ける御朱印は1種類です。
「奉拝・大石良雄公」の墨書きが入ります。
初穂料は300円です。
授与所で御朱印を頂くことができ、受付時間は9:00~17:00です。
大石神社オリジナルデザインの御朱印帳は現在のところありません。
大石神社へのアクセス方法
大石神社には参拝者用の駐車場が20台分あり、普通自動車の利用は無料です。
公共交通機関を利用する場合、京阪バス「大石神社前」下車ですぐ目の前です。
まとめ
大石神社で頂ける御朱印と、その歴史について解説しました。
「忠臣蔵」の名称で知られる赤穂事件ですが、未だに謎の残る事件です。
しかし「義を通す」というその本質に魅せられる人は多く、文学作品や歴史学者、はたまた歴史好きな人まで多くの人を時代を超えて惹きつける題材です。
一体どんな想いを胸に赤穂浪士が京都の街で時間を過ごしていたのか、追体験するために参拝するのも理解の一助になるでしょう。
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