紫式部の墓所の秘密を解説!実はお隣のお墓に重大な意味が?
京都に花開いた平安時代の文化を語る上で欠かせないのが紫式部です。
現在でも様々な方面からの解釈や作品化が行われる日本屈指の物語の作者でもあります。
しかしそのお墓は、意外と知られていません。
この記事では紫式部の墓所の秘密についてご紹介します。
実は紫式部のお墓だけではなく、その隣にも重大な秘密が眠っているのです。
紫式部は平安時代を代表する女流作家
国語でも社会でもその名を目にするのが「紫式部」です。
紫式部は平安時代の貴族の一人で、「源氏物語」の作者として知られています。
源氏物語の完成前からその出来が貴族の間で評判となり、時の権力者・藤原道長に請われ娘の中宮彰子に仕えました。
また「今鏡」「小右記」などの歴史作品にも紫式部に関しての記述があります。
一条天皇の后の一人である彰氏の家庭教師として、教養を教える立場にありました。
当時の貴族の女性は、高貴な人に愛されるための資格として巻分をはじめとする芸術関係の教養は必須だったのです。
そして同じく一条天皇の妃であった定子とそれに仕えた清少納言とはライバル関係にあったことでも広く知られています。
このように華々しい逸話を持つ紫式部ですが、正確な生没年についてははっきり分かっていません。
紫式部の墓はなぜか隣に小野篁の墓がある
有名ではあるものの生没年がハッキリせず墓所についてもあまり知られていない紫式部ですが、京都市内には「紫式部の墓」と伝わる場所があります。
それが紫野西御所田町にある島津製作所の一部です。
工場の敷地内のようにも見えますが、独立しており一般人の参拝も可能です。
有名人の墓の多くはどの菩提寺や神社の敷地内に安置されることが多いですが、紫式部の墓所は単体であるなど謎の多い墓となっています。
そして紫式部の墓の隣はなぜか小野篁の墓です。
もともとは紫式部が晩年を過ごしたと言われる雲林院というお寺が建っていた土地ですが、やがてお寺はなくなりお墓だけが残されたといわれています。
小野篁ってどんな人物?
そもそも小野篁とはどんな人物でしょうか。
隣り合って墓があるとまるで恋人のようですが、小野篁は紫式部よりも120年以前の時代に生きた人なので、互いに生きている間は会ったことがありません。
ではなぜ隣同士に埋葬されているのかというと、まずは小野篁の伝説について知っておく必要があります。
小野篁は平安時代前期の公卿で、小野道風や小野小町といった有名文人の祖先にあたるといわれています。
当時の法律「令義解」の編集に携わるほか漢詩や和歌に優れ、数多くの作品が後世に残されています。
あまりに有能であったために、「小野篁は冥府で閻魔大王の裁判を補佐していた」という伝説が残されています。
昼間は朝廷で仕事を、夜は地獄で裁判の仕事をこなしていたというのですから、かなりの超人であったことになります。
東山区にある六道珍皇寺には、その際に小野篁が冥府に行くために使用したといわれる井戸が残されています。
また多くの文学作品で、使者が冥府で小野篁と出会った逸話が残されています。
小野篁は「魔都としての京都」を考察するのに欠かせない人物だといえます。
紫式部と小野篁の死後の絆
紫式部と小野篁のお墓が隣接している事情ですが、実は両者は生きている間ではなく死後の世界で出会ったという伝説があります。
紫式部は死後、「愛欲の罪」によって地獄行きを宣告されます。
そんな紫式部を救ったのが閻魔大王に仕えていた小野篁なんだとか。
そのため2人のお墓は隣り合って存在するといわれています。
そもそもなぜ紫式部は死後に愛欲の罪をきせられたのでしょうか。
それは紫式部の執筆した「源氏物語」がまさに愛欲をテーマにした作品で、多くの人を虜にしたからなんだとか。
しかしそれではあんまりですよね。
ですから紫式部の死後、彼女やその作品のファンによって、同じ文人で閻魔大王に口利きのできそうな小野篁に彼女を救ってもらえるようお墓を隣接させたのかもしれません。
地獄での量刑は生きている人たちの祈りの力によって増減できるといいますから、きっと紫式部の魂は地獄から救われたのでしょう。
まとめ
紫式部の墓所の秘密について解説しました。
紫式部の墓のお隣は小野篁の墓となっています。
これは小野篁が地獄の裁判を補佐する役目に就いたという伝説にちなんだものです。
紫式部が犯した「愛欲の罪」を小野篁の力によって救済しようとした人々の祈りの形なのかもしれません。
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