鶴満寺の歴史や御朱印をご紹介~「百体観音」とは?
古典落語の演目に「鶴満寺」というものがありますが、これは大阪市内に実際にあるお寺を舞台としたお話です。
落語の演目になるほど有名なお寺なのですが、いったいどんな歴史を持っているのか気になりますよね。
この記事では鶴満寺についてその歴史や御朱印をくわしくご紹介します。
参拝の参考にどうぞ。
鶴満寺の歴史
鶴満寺(かくまんじ)は天台真盛宗のお寺で1753年に創建されました。
山号は雲松山で、正式名称は「慈祥院 鶴満寺」です。
ご本尊は阿弥陀如来です。
創建に関わったのは円仁で、当初は別の場所に鎮座していたお寺です。
その後荒廃してしまいますが、猟師の瓦林鶴林という人物が己の殺傷の業を悔い改めるために再興します。
しかし再び荒廃してしまいます。
1743年に見かねた大阪の豪商人・上田宗右衛門広久が再興を志し、1753年に現在鎮座している場所に堂宇を完成させます。
この時に中興の祖として京都から忍鎧上人を招き入れました。
鶴満寺の境内に鎮座している観音堂には西国三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所、坂東三十三ヶ所あわせて100ヶ所に安置されている観音像と同じ観音像が安置されています。
100体あることから「百体観音」と呼ばれ、一度の参拝で100ヶ所分のご利益を得られるとして鶴満寺は人々の信仰を集めていました。
また満開の桜が美しい、花の名所としても多くの人々の崇拝を集めます。
しかし1885年に発生した淀川の大洪水により百体観音は流され、桜も枯渇してしまいました。
現在安置されている100体観音は、大洪水の後に再び安置されることになったものです。
そして普段は観音堂は内部非公開となっており、拝観することはできません。
また国指定重要文化財でもある銅鐘があるのですが、現在は目にすることができません。
これは金属類の盗難が相次いだため、自衛のために公開をひかえているためなんだとか。
ちょっと残念ですね。
とはいえ観音堂そのものは1933年に再建されたもので、大阪大空襲の戦火をくぐりぬけた貴重な遺構です。
外から見るだけでも一見の価値があります。
鶴満寺の観音堂は安産祈願
百体観音が安置されていたことで有名な観音堂は、外から見ると八角塔楼閣つきの特徴的な造りをした建物です。
このお堂に安置されている「子安観音」は、安産祈願のご利益を授けてくれることで知られています。
この子安観音は霊元法皇の皇子である勝の宮の出産時に、安産祈願のために彫られた観音さまです。
祈りは聞き届けられ、無事に皇子が生まれました。
その後、鶴満寺の中興の祖である忍鎧上人がこの観音堂に安置したのです。
観音さまは10体彫られ、そのうちの一体を譲り受けたといわれています。
子安観音は現在でも安産祈願の仏さまとして地域の人々から信仰を集めています。
鶴満寺の御朱印
鶴満寺の御朱印は2種類あります。
墨書きが「子安観音」と入る新西国三十三ヶ所第3番の御朱印と御詠歌の御朱印です。
どちらも寺務所で頂くことができます。
初穂料はどちらも300円です。
鶴満寺オリジナルデザインの御朱印帳は現在のところありません。
アクセス方法
鶴満寺には参拝者専用の駐車場がありません。
車で参拝する場合は、周辺のコインパーキングを利用しましょう。
公共交通機関を利用する場合、市営地下鉄谷町線だと「天神橋筋6丁目」で下車し、徒歩で約5分です。
阪急電鉄千里線を利用すると、「天神橋筋6丁目駅」で下車し徒歩で約5分です。
まとめ
鶴満寺についてくわしくご紹介しました。
ビルに囲まれた非常にコンパクトなお寺ですが、かつては桜の名所と百体観音で広く知られ、多くの参拝者で賑わったお寺です。
様々な災厄に巻き込まれたものの、その度に地元の人々の熱意によって蘇ってきたお寺です。
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