今帰仁・阿応理屋恵ノロ殿内~祝女の歴史の話
今帰仁城跡は周辺に数多くの拝所が残っており、現在でも人々が祈りを捧げている姿を見ることができます。
阿応理屋恵ノロ殿内もそのひとつです。
この記事では阿応理屋恵ノロ殿内の場所や歴史的意義の変遷についてご紹介します。
阿応理屋恵ノロ殿内の歴史的変遷を知ることで、沖縄全土でどのように祈りの形が変化していったのか、その歴史を知ることが出来ます。
祈りの文化をさらに深く知る参考にどうぞ。
阿応理屋恵ノロ殿内はノロの屋敷跡
阿応理屋恵ノロ殿内( あおりやえのろどぅんち)は今泊集落に存在するノロの屋敷跡地です。
今帰仁城跡に向かうハンタ道(祭祀のときに使用する神道)の途中にはいくつかの拝所が残されており、かつては阿応理屋恵ノロ殿内の火の神の祠であったとされる建物だけが現在は残されています。
1665年頃に阿応理屋恵ノロは一族と共に首里へと引き上げていったといわれています。
現在では今帰仁上りの拝所のひとつとして、多くの人々が祈りを捧げています。
今帰仁上りは血縁・地縁のある人々によって行われる巡礼のひとつです。
一族の繁栄や健康祈願の他、先祖の霊を慰めるために定期的に行われるものです。
阿応理屋恵ノロ殿内の歴史的変遷~ノロは「祝女」
まずノロとは女性聖職者を指す言葉で、琉球王国内では王府が任命する世襲制の役職でした。
ノロは「祝女」という言い方もします。
ノロは王府からの辞令によって王国各地に派遣され、各地の御嶽や祭祀の管理を司りました。
琉球王国がなくなった現在でも、いくつかの御嶽では現地に留まったノロによって祭祀が継承されています。
ノロは国家の祭祀を司る役人としての性格があり、聞声大君を頂点として組織化されていました。
首里では佐司笠(さすかさ)と呼ばれる役職があり、国頭地方では阿応理屋恵(あおりやへ)という名称でした。
つまり今帰仁城跡の阿応理屋恵ノロ殿内とは、今帰仁村の周囲一帯を精神的・政治的面から支配していた中央府から派遣されてきた役人の屋敷であったといえます。
特に今帰仁城跡の阿応理屋恵ノロは「三十三君」の一人であり、王族に連なる一族であったと考えられています。
同じく王族であり夫でもあった北山監守が首里へと引き上げると一緒に阿応理屋恵ノロも首里へと引き上げ、以後この地域で行われる祭祀は今帰仁ノロに引き継がれました。
引き上げた理由についてですが、薩摩藩の琉球侵攻が深く関わっているとみられています。
阿応理屋恵ノロは政治的な性格も強い役職だったからこそ、琉球王国の政治的な動向に左右されることになったのです。
歴史文化センター(博物館)では阿応理屋恵ノロの遺品が展示されているため、どんな生活をしていたのか理解を深めることができます。
役職自体は首里に残されましたが、実際の祭祀は地域に残された今帰仁ノロが引き継ぎ、民間での祭祀は残されることになったのです。
執り行う司祭がいなくなっても、その祈りは人々によって残されるという一例をみることができます。
行き方について
阿応理屋恵ノロ殿内は国頭郡今帰仁村字今泊5101にあります。
参拝するためには今帰仁城跡に入る必要があります。
今帰仁城跡へは那覇空港から高速道路を使用して車で約3時間ほどです。
最寄りのインターチェンジは「許田IC」で、県道491号線から505号線に進むと今帰仁城跡への道路案内標識が見えてきます。
駐車場は無料で利用できますが、入場料として大人400円、小学生・中学生・高校生300円が必要です。
まとめ
阿応理屋恵ノロ殿内の場所や歴史的意味の変遷についてお伝えしました。
阿応理屋恵ノロ殿内は薩摩藩による琉球支配やその後の廃藩置県などにより放棄されることになりましたが、火の神の祠は残され、地域の祭祀は残されたノロに引き継がれました。
琉球王国はなくなっても、人々の祈りの習慣は守られたのです。
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