一条戻橋には伝説が沢山!女性は通らない方が良いの?
京都の一条通は堀川に架かっている橋は「一条戻橋」と呼ばれ、源氏物語の中にもその名を見ることができる場所です。
さらには数多くの伝説をもつ橋でもあります。
いったいどんなエピソードをもっているのか、みなさんは全部ご存じですか。
この記事では一条戻橋にまつわる伝説についてご紹介します。
さらには「女性は通らない方がいい」と言われている実態についてもお伝えします。
一条戻橋の伝説は三善清行の蘇り
三善清行は平安時代中期の貴族で、文学者として名高い人物です。
漢学者として優れていただけではなく、「意見十二箇条」を朝廷に上奏し土地制度の問題を指摘するなど政治にも優れた才能を発揮しました。
三善清行が死んでこの橋を柩が渡っていると、別の土地で修行中だった息子がようやく間に合い柩にとりすがって号泣します。
すると三善清行が生き返り、父子は再会を喜びました。
その後再び三善清行は死亡しますが、この伝説から一条通にかかる橋は「死者が死の世界から戻る」ことから「戻橋」の名がつくようになったといわれています。
安倍晴明の式神について
平安時代の陰陽師といえば、安倍晴明を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
映画や漫画などに登場し、日本人にとってはおなじみの存在といえます。
そんな安倍晴明ですが、十二神将を式神として使役していたといわれています。
この式神を一条戻橋にかくし、必要な際には呼び出して使っていたんだとか。
『源平盛衰記』によると、建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の母)の出産の際、母親が一条戻橋で占いを行ったところ、12人の童子が姿を現し安徳天皇の将来の予言を行ったんだとか。
この12人の童子こそ十二神将であるといわれています。
なお、現在の一条戻橋は1995年に架けられたものですが、一条戻橋近くにある晴明神社には1995年まで使用されていた橋の一部が移築されています。
一条戻橋の伝説③茨木童子と渡辺綱の対決
茨木童子(いばらきどうじ)は鬼のひとりで、平安時代に都で暴れ回ったといわれる酒呑童子(しゅてんどうじ)の家来です。
能や歌舞伎、映画や小説など様々な物語にも登場しています。
最も有名なのが、歌舞伎の演目「茨木」でしょう。
妖怪退治に数々の武勇伝を残す源頼光の家来の一人・渡辺綱は一条戻橋を馬で渡っている途中、女性に頼まれて送ることになります。
しかし女性は鬼に変化したので渡辺綱はこの腕を切り落とします。
鬼はこの腕を取り戻すために渡辺綱の屋敷を執念深く付け狙い、遂に回収を果たします。
この鬼こそ、茨木童子です。
物語によっては一条戻橋ではなく舞台が羅生門に変わったりします。
いずれのパターンでも平安時代を代表するスターがそろい踏みする奇想天外な物語として人気があります。
一条戻橋はなぜ「女性は通らない方がいい」といわれているのか
様々な物語の舞台となった一条戻橋ですが、「面白そう!」と興味本位で出かけるのはちょっと待った方がいいかもしれません。
というのも、一条戻橋の伝説の1つに「縁談をひかえた女性=未婚の女性」は一条戻橋を渡ると実家に戻ってきてしまうといういわれがあるからなんです。
結婚してお嫁に行った女性が離縁することを「出戻り」といいますが、「戻り」の文字を使用するこの橋を渡ることで出戻りがないようにと験を担いだのでしょう。
また雅なイメージの強い平安時代ですが、中期以降は自然災害や戦乱の激化で一条戻橋より先、堀川右岸から右京区にかけてはかなりの荒廃となりました。
そのためこの橋を渡ることは「もうあとには戻れない」という特別な意味を持つようになった名残が験担ぎとして残されたのかもしれません。
逆に戦争中は、出兵する人とその家族は生きて還ってくることを祈願しわざとこの橋を通ったんだとか。
戻りたい人、戻りたくない人の双方の願いを受け止めてきた橋です。
まとめ
一条戻橋は794年頃にはかかっていたといわれる京都の東西をつなぐ橋です。
現在の橋そのものは1995年に架けられたものです。
様々な伝説が生まれた場所でもあり、長い年月の間に人々が色々な思いを込めてこの橋を使用してきました。
興味がある方は一度訪れてみて下さい。
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