教興寺の2つの礼所の御朱印の種類や値段~名のついた合戦があった場所
大阪は古来より政治と経済の中心地であったため、その覇権を握ろうと幾度も戦いが起きています。
中にはお寺が戦場となることもありましたが、八尾市にある教興寺もそんなお寺の1つです。
この記事では教興寺の歴史と教興寺を舞台にした合戦についてご紹介します。
教興寺は2つの霊場の札所でもあるので、その御朱印についてもお伝えします。
教興寺の歴史
教興寺は真言律宗のお寺です。
山号は「獅子吼山」で、正式には「大慈三昧院教興寺」といいます。
ご本尊は弥勒菩薩です。
言い伝えによると、かつて聖徳太子が物部守屋氏との戦いに際し、戦勝祈願のためのお寺を創建するように秦河勝に命令し、588年に創建されたお寺です。
その後お寺は荒れ果ててしまいますが、鎌倉時代に入ると西大寺(奈良県)の僧・叡尊によって再興されました。
叡尊は蒙古襲来の際に朝廷から国難を退けるための祈祷を命令され、教興寺でも祈祷を行っています。
一時期は河内を代表するお寺となりますが、16世紀の戦乱の時代には戦火に飲まれ堂宇が焼失してしまいます。
17世紀に入ると再び再興されました。
浄瑠璃作者で有名な近松門左衛門が寄宿したこともあるお寺です。
また境内には白髭玉津大明神や弘法大師像、不動明王像が安置されています。
教興寺の戦い
戦国時代の頃、教興寺が戦場となった事があります。
「教興寺の戦い」と呼ばれる1562年5月19日に起きた合戦です。
教興寺には河内国守護である畠山高政が陣を敷き、三好義興・松永久秀の軍勢と激しい戦いを繰り広げます。
畠山高政は敗退し、紀伊地方への逃亡を余儀なくされました。
この戦いによって、教興寺の伽藍や施設のほとんどが焼失してしまいました。
教興寺の敷地内にはこの戦いで命を落とした河内守護代である湯川直光の墓が今でもあります。
紀伊亀山城第11代城主であり、畠山氏の重臣でもありました。
教興寺の文化財
教興寺の戦いや明治期の廃仏毀釈などの危機を乗り越え、教興寺にはいくつかの文化財が今も残されており、常時拝観できるようになっています。
ご本尊の弥勒菩薩の他、千手観音菩薩像や地蔵菩薩像、毘沙門天像、弘法大師像などがあります。
また秘仏・弁財天像も安置されています。
こちらは元々は岩戸神社にあったものですが、明治期の神仏分離令によって教興寺に移されました。
秘仏ですが1月1日~7日と7月6~7日の年2回特別開帳されます。
教興寺の御朱印
教興寺の御朱印は2種類あります。
「救世殿」(河内西国霊場札所第16番)の墨書きと、「弥勒菩薩」(おおさか十三仏霊場)の墨書きの2種類です。
初穂料はそれぞれ300円です。
御朱印は寺務所で頂くことができます。
教興寺オリジナルデザインの御朱印帳は現在のところありません。
おおさか十三仏霊場納経帖がありますので、霊場巡りを行う際はこちらを利用するといいでしょう。
バインダー式となっており、持ち運びが便利です。また河内西国霊場にも宝印帳があります。
教興寺周辺には徒歩圏内で河内西国霊場の札所である大通寺や元善光寺、梅岩寺などがあります。
アクセス方法
教興寺には参拝者専用の無料駐車場があります。
1度山門を通り過ぎてから住宅街を回り込む分かりにくい場所に駐車スペースがありますので、見落としがないように注意が必要です。
公共交通機関を利用する場合、近鉄線だと「高安駅」下車、信貴山口からでて徒歩で約16分です。
まとめ
教興寺についてご紹介しました。
教興寺の戦いで数多くの施設や伽藍を失ったものの再建され、現在では河内西国霊場とおおさか十三仏霊場の札所となっています。
教興寺の戦いに関連するお墓は現在でも残されていますので、参拝の際はぜひ墓前まで足を運んでみて下さい。
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