中城ノロ殿内は仲尾次にある理由~今帰仁にあるのに「中城」のワケ

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中城ノロ殿内は仲尾次にある理由~今帰仁にあるのに「中城」のワケ

沖縄には本土で見られない独特の風習や文化が数多くあります。

中でも「ノロ」は琉球王国を信仰の面で支えた重要な役職になります。

沖縄ではそんなノロがかつて暮らしたとされる屋敷跡が現在でもみることができ、そのいくつかは祈りを捧げるための拝所となっています。

この記事ではそんなノロの屋敷跡の1つ、中城ノロ殿内についてご紹介します。

実は今帰仁村にあるのですが、なぜ中城地区にはなく仲尾次にあるのでしょうか。

その理由についてもお伝えします。

中城ノロ殿内はノロの住む屋敷で拝所のひとつ

中城ノロ殿内(なかぐすくのろどぅんち)は中城地区のノロ(祝女)の住む屋敷という意味をもつ言葉です。

今帰仁上りの御嶽の1つであり、現在も人が住んでいるノロの屋敷跡になります。

中城ノロは琉球王府からの辞令を受けて役職に就いていた聖職者になります。

琉球王府からは辞令と供に勾玉・水晶玉・ノロが騎乗する馬の鞍・香炉・花瓶などが支給されていたといいますが、戦争時の混乱や火災で失われてしまったといいます。

なぜ馬の鞍が支給されたのかというと、ノロが執り行う祭祀の中に馬に乗って執り行うものがあったためです。

ノロは国家の定める職業だったので、仕事に用いる祭具の多くは王府より支給されるものです。

辞令書の写真は残されていますので、どのような内容であったかを確認することはできます。

現在は中城ノロ殿内には代々のノロの位牌が祀られています。

その他ノロが身にまとっていた装飾具や祭祀の道具については、今帰仁城跡近くにある今帰仁村歴史文化センター内で観覧することができます。

中城ノロ殿内はなぜ今帰仁にあるのに中城?

中城ノロ殿内がある場所は今帰仁村です。

なぜ中城村に屋敷がないのでしょうか。

それは中城ノロを輩出する家は古来より5つのムラそれぞれの祭祀を執り行うノロを輩出するという役割があったためです。

5つのムラとは崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次を指します。

そして中城ノロの屋敷は仲尾次にありましたが、この仲尾次は「中城ムラ」と呼ばれていたのです。

そのため住んでいた場所を冠して「中城ノロ殿内」と呼んでいますが1668年に琉球王府によって「中城ムラ」の使用が禁止されました。

中城ムラのかわりに仲尾次ムラの名称が使用されるようになりましたが、中城ノロは名称を変えることなく継承されていきました。

また仲尾次・諸志・上間の集落の境界線は長く曖昧でした。

そのためますます中城ノロ殿内が名称とは異なる地域に存在しているという状況に陥ってしまったようです。

中城ノロ殿内の場所

中城ノロ殿内は諸志のパラヤー近くの交差点にある民家です。

現在住んでいるのは「宮城家」ですが、表札が出ていないので分かりにくくなっています。

周辺には道路案内標識もありません。

庭の中央にはコンクリートでつくられた丸い井戸が鎮座しています。

現在は蓋がなされ蔦も這っている状態なので、使用されていないことが分かります。

位牌が飾られていますが参拝したい場合は必ず家の方に許可を頂くようにしましょう。

不在の場合はご縁がなかったということですね。

周辺のバス停は今泊→兼次→諸志→与那嶺→仲尾次の順に続いています。

最も近いバス停は「諸志」です。

車で出かける場合、今帰仁城跡から今帰仁村役場に向かって県道505号線を進むと沿線沿いに見えてきます。

まとめ

中城ノロ殿内についてご紹介しました。

中城地区ではなく今帰仁村にある中城ノロ殿内ですが、かつて中城ノロは広範囲の地区を管轄するノロを輩出していました。

その1つである仲尾次ムラはかつて「中城ムラ」という名称でこの地に中城ノロ殿内があったものの、地名の変化によってノロの役職名だけがそのまま残り地名とノロの名称が一致しなくなりました。

歴史的に地域がどのように統治されてきたのか知る上で興味深い出来事となっています。

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