今帰仁村ティラガマにまつわる伝説!源為朝が沖縄に?
今帰仁村にある運天港は、古来より外洋からの玄関口として重要な役割を果たしてきました。
そのため様々な逸話が残されており、周辺の遺跡も必見です。
この記事ではそんな周辺の遺跡群の中からティラガマにまつわる伝説についてご紹介します。
実は源為朝が沖縄に来たという伝説は本当でしょうか。
伝説の真偽について考察します。
ティラガマにまつわる伝説
ティラガマは今帰仁村運天港近くにある洞窟です。
今帰仁上りの拝所のひとつですが、聖地であるだけではなく、源為朝公が住んでいたという伝説が残された洞窟としても有名です。
ティラガマのすぐ傍には「源為朝公上陸の碑」があり、この地に上陸した源為朝はしばらくティラガマで生活したという伝説が残っています。
洞窟の中に入っていくと、源為朝の指跡といわれている窪みを目にすることができます。
洞窟内部には拝所があり、かつては霊石・ビジュアル石があったとされています。
ビジュル石は仏教の「びんずる様」に由来すると考えられる石で、子授け祈願や吉凶を占う力がある他、治したい病を思い描きながら石を撫でると病気が治る霊力が秘められていると信仰を集めている石です。
しかし現在は何者かによって持ち去られ、目にすることはできなくなりました。
それでも現在でも子授け祈願のために洞窟に向かって祈りを捧げる人はあとをたちません。
源為朝は平安時代の英雄
そもそも源為朝は平安時代の武将で、『保元物語』や『吾妻鏡』にその活躍が描かれている歴史上の人物です。
九州、京都、伊豆で大暴れした源為朝ですが、本当に沖縄にやって来たのでしょうか。
源為朝の人生をたどってみると、その武勇によって九州で名を挙げ、京都では天皇と上皇の間で起きた権力争いに参加します。
数々の武功を挙げますが戦争には負け、伊豆大島へ流罪になりますが武力で伊豆を支配してしまいます。
そのため追討軍が差し向けられ、遂に自害したとされています。
しかしこの自害は偽装で、源為朝はひそかに沖縄に逃れ子供を授かったとする説もあります。
子供はやがて成長すると初代琉球王舜天になったんだとか。
この説を取り入れたのが曲亭馬琴の『椿説弓張月』です。
また琉球正史である『中山世鑑』や『おもろさうし』にも同様の説明があります。
「源為朝公上陸の碑」はこの伝説にちなみ、大正11年になって創建されました。
碑文の設置には東郷平八郎が尽力したとされ、その名は碑文の一部にも刻まれています。
運天港の由来は源為朝伝説にあり
琉球王国の遠い祖先とされる源為朝ですが、上陸ポイントとされる運天港の由来にもなっています。
伊豆大島から南西へと逃げ出した源為朝一行ですが、途中で嵐に遭遇します。
源為朝は「運を天に任せる」と念じ、はたして船は沖縄にある港に無事、辿り着いたとされています。
そのためこの港を「運天港」と呼ぶようになったともいわれています。
ティラガマへのアクセス方法
那覇空港からティラガマがある今帰仁村までは約110㎞、車で約2時間45分ほどです。
最寄りのインターチェンジは「許田IC」で、インターチェンジを降りてからティラガマ近くの運天港までは約40分です。
県道72号線を進むと案内標識が見えてきます。
「源為朝公上陸の碑」のさらに奥にティラガマはありますが、かなり草が生い茂っていますので足下には十分に注意しましょう。
ハブが出てくる可能性がありますので、長袖・長ズボン・運動靴だと安心です。
まとめ
ティラガマにまつわる伝説についてくわしくご紹介しました。
今帰仁上りの拝所でもある洞窟ですが、源為朝が一時期住んでいたという伝説があり、近くには「源為朝公上陸の碑」もあります。
琉球王国の正史でも初代王は源為朝の子供とされており、もしかしたら日本と琉球になんらかのつながりがあるのかもしれません。
本当かどうか、考証のためにも一度訪れてみたいスポットです。
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