津屋口墓が「アカン墓」と呼ばれるワケ~今泊の謎とは
今帰仁城跡の城下町にあたる今泊集落には数多くの歴史的遺構が見られますが、中には不思議と謎が詰まったものもあります。
この記事ではそんな謎の多い遺構の中から津屋口墓についてくわしくご紹介します。
いったい何が謎なのか、そして不思議な別名の理由についてもお伝えします。
津屋口墓は今帰仁監守の墓~1人だけが今泊に埋葬された理由とは?
津屋口墓は今泊集落にある今帰仁監守3世の和賢(わけん)の墓です。
和賢(宗真公)は1678年に埋葬されましたと考えられます。
今帰仁上りの拝所のひとつです。
「ちぇーぐち墓」あるいは「アカン墓」とも呼ばれています。
今帰仁監守とは今帰仁城の管理職で、琉球王府から派遣された役人です。
一世は首里城に鎮座する世界遺産・玉陵( たまうどぅん )に埋葬されています。
そして2世と4~7世は運天港近くに鎮座する大北墓(うーにしばか )に埋葬されました。
なぜ3世一人だけが今泊に埋葬されたかについては明らかになっていません。
津屋口墓はなぜアカン墓と呼ぶのか
津屋口墓は「アカン墓」とも呼ばれていますが、アカンとは「開かん」という言葉を指します。
「口なし墓」とも呼ばれることがあり、その別名が示すとおり、津屋口墓は塗り込められており開けることができません。
なぜ開けられないように、まるで封印されるかのように埋葬されたかについてはっきりとした伝承は残っていません。
もしかしたら流行病でなくなってしまったために、死後のその病が猛威を振るうことを恐れたのか、あるいは悪霊に変化することを恐れたのかもしれません。
いずれにしろ推測の域を出ません。
一説によると、3世はハンセン病を患って亡くなったために一人だけ墓を別に分けられたのだともいわれています。
ハンセン病とはらい菌に感染することによって発症する感染病で、外見に変化が生じ不治の病ともいわれていたため医療が発展していなかった時代には患者を隔離するしか術はなかった病気です。
一度発症すると感染者本人はもとより家族や集落全体まで苛烈な差別にさらされ、社会生活から排除されることが多かったのです。
差別的な扱いは国家的規模で行われ、日本国内では現在でも元患者らによって差別的な扱いに対しての謝罪や救済が裁判で争われています。
もし3世がハンセン病に罹患していたとしたら、死後も病が感染することを恐れて墓の蓋を塞ぎ、一族で一人だけ別の墓を用意したのかもしれません。
開かずの墓が実は開けられたことがある?真相は
「開かずの墓」こと津屋口墓ですが、実は1964年頃に一度無理にこじ開けられるという事件が起きています。
一部ではこの津屋口墓には「王家の財宝が一緒に埋葬されている」という伝説もあり、伝説を信じた不届き者が墓をこじ開けようとしたとみられています。
夜、住民が寝静まった頃に犯人はツルハシなどを用いて墓の蓋を破壊しようとしたようです。
津屋口墓は現在も子孫にあたる具志川氏によって管理されており、修復作業が試みられましたが内部まで詳細に調査することは墓の崩壊を恐れてできず結局開かずの墓の秘密は謎のままです。
津屋口墓への行き方
津屋口墓は今帰仁城跡から見て東側の海岸沿いの今泊集落にあります。
周囲には阿応理屋恵ノロ殿内と見られる遺構などが残っています。
車で移動する場合、最寄りのインターチェンジは「許田IC」で、インターチェンジを降りて津屋口墓までは約45分ほどです。
近くの白浜海岸はその名の通り白い砂浜が美しい浜辺で、散策に最適な場所です。
まとめ
津屋口墓についてご紹介しました。
今帰仁城の管理を行っていた監守の墓ではあるものの、「アカン墓」と呼ばれているように開けられないように蓋が塗り込められ一族から離れた場所に存在する墓です。
今帰仁上りの拝所のひとつではありますが、一族から離れた場所にお墓があるのはちょっと寂しい気もしますよね。
いつか謎が解ける日がくるでしょうか。
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