今帰仁・池城墓(イチグスクバカ)で眠っているのは誰?貴重な資料ともなる拝所
お墓は死者の魂が眠る場所でもあり、死んでしまった人にご挨拶するための場所でもあります。
沖縄ではお墓に向かってご先祖様の安寧と、まだ生きている一族の繁栄や無病息災を祈る風習があります。
そのためお墓をしらべてみると、沖縄の歴史が見えてきます。
この記事ではそんな歴史的価値の高いお墓の1つ、池城墓についてご紹介します。
文化財にもなっている池城墓にはどんな謎や歴史が秘められているのでしょうか。
理解の一助にご覧下さい。
池城墓(イチグスクバカ)は領主が眠る墓
池城墓(イチグスクバカ)は今帰仁村に鎮座する墓です。
「うふどぅーる」と呼ばれることもあり、村指定文化財として1991年に登録されました。
崖に沿って1670年頃建てられ、墓の建造のために那覇から石工を呼び寄せたと伝わっています。
「相方積み」と呼ばれる、沖縄の史跡で多く見かける石積みの技法が用いられています。
この墓に埋葬されているのはさきやま大やくもい・大あむしたれ夫婦、そしてその子供の玉城 ( たまぐすく ) のろくもいです。
「大やくもい」とは「大役を果たす者」という意味の言葉です。また「親雲上」と呼ばれる琉球地方の士族の名称でもあります。
つまり墓の鎮座する今帰仁村崎山一帯の領主の墓であることがわかります。
そして妻の「大あむしたれ」ですが、これは役職名を指すと考えられています。
該当する役職と言えば「大阿母志良礼(うふあんしたり)」で、聞声大君の補佐役である神職名になります。
ただし聞声大君は首里にいるため、当然その補佐役である大阿母志良礼も首里勤めのはずです。
それが首里から遠く離れた場所に埋葬されているのはなんだか不思議ですね。
子供の「玉城ノロ」とは玉城地方の祝女(ノロ)を示すと考えられています。
つまり政治の要、信仰の要、その両方を司った一族の墓であることが分かります。
そんな高貴な人々を埋葬するための墓ですから、わざわざ首里から石工を呼んでまで墓を建造した理由にも納得できます。
池城墓は近世の沖縄の歴史の移り変わりがよく分かる史料
沖縄の文化財の多くは、島津藩の侵攻や太平洋戦争末期に勃発した沖縄戦とその後の混乱期に失われたものや資料が散逸したものが多く、まだ謎に包まれている部分が多いです。
しかし池城墓は比較的状態が良く、近世の士族の生活や文化的な風土について研究するための貴重な資料となっています。
また今帰仁上り(なちじんぬぶい)の拝所のひとつであり、現在でも子孫やゆかりのある人々が祈りを捧げるための場所でもあります。
池城墓は川の近くにある崖を利用して建造された墓ですが、これは地形をただ単に利用しているだけではなく、当時の埋葬方式に有利だったからです。
近世における沖縄の死者の埋葬は火葬ではなく、一度ミイラ化させてから洗骨し、改めて骨壺に骨を納めて埋葬するという形式をとっていました。
そのため水辺に墓が建造されることが多かったのです。
池城墓への行き方
池城墓は今帰仁村役場の近くにあります。
那覇空港からは約110㎞ほどの距離で、車で移動すると約3時間ほどかかります。
諸氏の佐多浜海岸からは約2.5㎞ほど離れています。
県道505号線から脇道にそれ小橋を渡るとジニンサガーラがみえてきますが、この河口近くにあります。
200mほど手前の農道に「池城墓」の案内標識が出ていますので、見落とさないように注意してください。
周辺には赤墓や崎山の神ハサギなどの文化財もあります。
まとめ
今帰仁村に鎮座する池城墓についてご紹介しました。
周辺を治めていた領主一家の墓だと考えられており、状態が良いため近世の歴史や文化を現在に伝えてくれる貴重な文化財のひとつでもあります。
また祈りを捧げるための拝所として、現在もなお祈りを捧げる人があとを絶ちません。
貴重な遺構なので、参拝する際は現状を壊さないように不必要に周辺に手を加えないようにしましょう。
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