今帰仁・百按司墓はどんなスポット?~読み方や行き方について
今帰仁村には古来より多くの人々が住んでいたこともあり、多数の墓が残されています。
百按司墓もそのスポットのひとつです。
この記事では百按司墓の読み方や意味などをくわしくご紹介します。
墓から知ることができる琉球王国の歴史や仕組みについてお伝えします。
百按司墓には数多くの按司が埋葬されているスポット
百按司墓は「むむじゃなはか」と読みます。
「ももじゃなばか」と呼ぶこともあります。
その名が示すとおり、数多くの按司が埋葬されている墓で、今帰仁村の指定文化財の1つです。
天然の崖を利用して造られた墓で、半月状に石を組み上げ漆喰で塗り固めてあります。
百按司墓のある一帯は60基以上もの墓があり、正確な記録は残されていないものの数多くの古墳が集中して見つかっている場所です。
中には北山監守一族を埋葬する大北墓なども含まれています。
百按司墓には漆塗りの柩も埋葬されていましたが、現在は百按司墓ではなく歴史文化センターに移され展示されており、古琉球の埋葬文化について知ることができます。
いくつかの柩は研究のため沖縄の外へ持ち出されており、今後はその返還やさらなる研究が待たれています。
百按司墓に埋葬されている按司とはどんな人たち?
按司とは「あじ」あるいは「あんじ」と呼ばれる琉球王国において重要な役職を担っていた貴族階級で、琉球国王の分家でもありました。
その地位は王子に次いで高かったのです。
古代においては王という意味で使用されたこともあり、男性だけではなく王妃や未婚の王女の尊称として使用されることもありました。
百按司墓に埋葬されているのは、中でも尚徳王に仕えた按司であると考えられています。
これは『中山世譜』の中にある百按司墓に関する記述が「監守貴族」とあるためです。
尚徳王は喜界島遠征などを成功させたものの臣下からの信頼は低く、クーデターが起き尚円王が尚徳王にかわって王位につくこととなりました。
この尚円王からの琉球王国を第二尚氏と呼びます。
王が代わるとそれに仕える臣下も変わるものです。
王府から遠い場所に墓が造られたのも、政争に敗れたためかもしれません。
その他、薩摩藩が侵攻してきた際の戦いで戦死した北山監守たちも埋葬されているとみられており、様々な時代の支配者階級の埋葬地であったことがうかがい知れます。
百按司墓への行き方
百按司墓は今帰仁村運天にあります。
那覇空港から運天港までは約90㎞、車だと約1時間45分ほどかかります。
県道71号線から国道505号線に入ると道路案内標識が見えてきます。
運天港と那覇空港を結ぶリムジンバスもあります。
高速バスを利用すると約2時間35分ほどかかります。
路線バスを利用する場合は名護バスターミナルから66系統バスに乗車し、「仲宗根」バス停を下車することになります。
運天港を見下ろす丘陵地帯を登っていくと百按司墓の独特なその姿を目にすることができます。
近くには源為朝上陸の記念碑があり、反対側に百按司墓があります。
道は一応整備されているものの、周囲はうっそうとした森に覆われています。
石段や斜面もあり足下が悪くなっていますので運動靴など歩きやすい足下で出かけましょう。
雨が降った日や夕暮れ後はさらに歩きにくくなりますので避けた方が良いでしょう。
一方で晴れると高台にある百按司墓周辺からは海と空を見通すことができる絶景ポイントとなっています。
よく晴れた日の午前中のおでかけがおすすめです。
まとめ
百按司墓についてご紹介しました。
百按司墓は数多くの按司を埋葬しているとみられている墓です。
按司は琉球王国の支配者階級であり、時代と共に役割が変わりました。
百按司墓には各時代ごとの按司が埋葬されていると考えられており、琉球王国の歴史を知る上で貴重な史料となっています。
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